今年はぽけっとの会発足20周年。2018年10月上旬、立ち上げからぽけっとの会を育ててきたパワフルなメンバーが集まり座談会を行いました。
ママ友だけど親戚のような関係、本気でぶつかることもあったり…
このママ達にとっては「第2の青春」といってもいい時間。共に過ごしてきたお話しを伺いました。
どうやって会を作ったのでしょう。どんな活動をされてきたのでしょう。
20年前といえばまだインターネットの普及はさほどされていない時代。ダウン症児の子育て情報は「まずは新宿区の保健センター、そして専門家に聞く、足りない情報は足で探す」そんな時代です。
そして、ぽけっとの会ができるまでは折れそうになる心の支えは近隣の区の親の会でお世話になったそうです。
現在のぽけっとの会は、先輩方が築いてくださった地盤の上で程良い緩さのおおらかな会に成長しました。
しかし、このママ達のパワフルさはご健在です!
これから成人期を迎えるぽけっとの会でやりたい事などもお話ししていただきました。
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カジさん21歳の男子のママ
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マツイさん23歳の女子のママ
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モリヤマさん22歳の男子のママ
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オオバさん22歳の男子のママ
まず最初に、およそ20年前のことをお伺いします。お子さんが産まれた時、ダウン症と知ってどう思われましたか?
私は反対側の人間になったと思った
- マツイ
- 11ヶ月の時に近所の方から「ダウン症では?」と言われ、血液検査をしました。
結果はマイナスでした。でも他の子どもと比べてなんで皆と同じことが出来ないのだろう、なんで思ったような反応してくれないのだろ、なんで私を困らせるのだろう、と葛藤の日々で、子供に手を上げることもありました。
子供を受け入れるきっかけは、私があまりにもひどいことをしてしまった時です。
さすがに自分でも我に返り子供におもちゃのトンカチを差し出し「ごめんね、ママが悪かった。ママのことをこれでぶって!」と子供に土下座をして謝りました。その時の娘はまだ2歳くらいでした。
私は娘にトンカチで頭をたたかれると思っていました。しかし娘は私の頭を「いい子いい子」といった風にニコニコと撫でたのです。その時がきっかけで「あぁ、この子はこれでいい」と感じ、娘のありのままを受け入れるようになりました。その後3歳の時に別の病院で半年間染色体を培養してやっとモザイク型のダウン症と分かりました。2%の染色体が異常でした。
告知を聞いて「そうかそうだったんだ!」自分でも納得していました。
思えばお乳を飲むのがへたくそだったり、突拍子のない破天荒な行動もすべて納得しましたが、「私は反対側(障がい者側)の人間になった」と思いました。ガラッと自分の立ち位置が変わったような感覚でした。
産まれた時から合併症があり「ダウン症が」というより「体」が心配だった
- カジ
- うちの息子は産まれた時から合併症がありました。だから一番は「無事に生きられるか」そっちの心配の方が大きかったです。また、私がダウン症について無知であったことも大きな落胆をしなかった理由だったかもしれないです。
とはいえ生後半年くらいは辛かったです。というのもうちは神社を営んでいるので、「男の子が産まれた」と伝え聞いた氏子さん達から口々に「跡取りができたから安泰ですね」とお祝いの言葉を頂戴しました。そのプレッシャーがあり産まれたばかりの息子に会いたいと言われても「今まだ寝ているので…」とやんわりお断りしていました。当時は集会場の一室で生活していたこともあり「全然泣き声が聞こえないね」「ずいぶん大人しい子だね」と訝しく思われていた時期もあったかもしれません。息子が成長するに従い部屋から外に連れ出す機会も増え、自然な形でカミングアウトをしました。
印象に残っている出来事なのですが、入院中の息子に会いに来てくれた知人が、息子を見て「ツー」と涙を流したことがあったんです。「え?なんで泣いているの?」と驚くと同時に「息子の誕生は、世間一般には不憫に思われることなのか」と悲しく感じたことを覚えています。
自分と息子の人生をあきらめた
- オオバ
- 私はダウン症があると告知を受け、自分の人生と息子の人生を半分あきらめました。私がこんなに絶望的だったのは医療関係の仕事をしていて、ダウン症について事前知識があったこともあります。ダウン症が知的障害の代表みたいに思っていてダウン症のある子だけは産みたくなかったからです。
とにかく辛かった。私が息子と同級生のお母さんより年が上のことも辛かった。最近の若くしてダウン症の子を授かるお母さんたちを見ていると子育てが楽しそうに見えます。でも生まれた息子はとても可愛かった。私がもっと早く障害を受け入れていたら、ダウン症についての偏見がもっと少なかったら、息子の可能性をもっと引き出せたかもしれない等と後悔の念もあります。息子に申し訳ないとも思います。
息子と一緒に死にたいと思ってしまった
- モリヤマ
- 息子を出産直後「おめでとう」の祝福もないまま息子と私の病院生活が始まりました。
羊水過多のため、緊急帝王切開で生まれた息子は仮死状態。
TAM(ダウン症候群の新生児期に白血病様芽球が末梢血中に増加する疾患) があり、合併症の為、出産した病院から東大病院に搬送され、母子別々にされてしまいました。
息子の状態がわからない不安と、羊水過多と言われたことから「ダウン症かもしれない…」とさらに不安が増し、誰かに迷惑かけて生きるくらいなら、「息子と共に死にたい」と思ってしまいました。生後3ヶ月の退院目前でダウン症の告知を受けました。
「やっぱり」という思いと、世間の目が怖くて、退院が嬉しいはずなのに不安で仕方ありませんでした。息子は生後半年くらいまで笑顔を見せてくれなくて、そんなことも悲しい思いになっていたかもしれません。当時の私には「息子が無事であってほしい。合併症が治ってほしい。」と祈ることしかできませんでした。悲嘆にくれていた私の気持ちが変わったきっかけは、入院していた東大病院で治療している重い病の子供達の死でした。懸命に看病し祈るお母さん達を毎日見ていて次第に私の心は変わっていきました。
「息子の笑っている笑顔を見たい、外で遊ばせたい」と強く思うようになりました。
20年前、新宿区に親の会を作ろうと思ったきっかけを教えてください
- カジ
- 私たちは当時世田谷の親の会に入っていたのよね。そこで頻繁にやっていたのが地域の情報交換で、うちの地域にも欲しいね、という動機で1999年にぽけっとの会を作りました。
- マツイ
- 地域のことは地域で情報共有するのが一番だよね。
4人はどうやって知り合いましたか?
- マツイ
- たしかJDS(日本ダウン症協会)から名簿をもらいました。名簿をもらって…今みたいに個人情報に厳しくなかったからね(笑)。あとはJDSに協力してもらいました。
それで何人かに声をかけて、最初は、私(マツイ)とカジさんとモリヤマさんの3名で会を作りました。当時はうちの娘が3歳、モリヤマさんの息子さんが2歳、カジさんの息子さんが1歳だったね。
- モリヤマ
- その後すぐオオバさんたちも入会して7名になりました。保健所の方から「ダウン症以外の染色体異常のある少数派の方も会員にしてはどうか。」とアドバイスをされ、確かにそうだねと、知り合いにもそういった子がいたので誘いました。
ぽけっとの会の立ち上げについてお伺いします
立ち上げのころに苦労したことは?
- マツイ
- 会の立ち上げの時に「どんな会にするか」をメンバーと話し合ったのですが、方向性が違う方もいるのでそこは気まずい空気が流れた時もありましたね…
- カジ
- 熱意が強い方で行政に権利を訴えることをしたいと言うご意見もあったのですが、私たちは地域の情報交換ができるネットワークを作りたいという気持ちが強かったので、そういった目指す方向の違いは難しいなと思うことはありました。
当時の会報は年に4回発行していました。春夏秋冬よね。会報では、ダウン症関係の著名な先生や専門の先生に頼んでコラムを書いていただいていましたが、それがけっこう「次はどなたにお願いしようか…」と大変でした(笑)
当時は動作法の先生や小児科の先生や地域の小学校の支援学級の先生など多岐の分野で執筆をお願いしていたよね。
- マツイ
- うんうん、あれはほんとに大変だったねぇ。
「ぽけっとの会」の名前はどのような意味がありますか?
- カジ
- たしかみんなで「名前をどうしようか」と集まり考えたのですが、その時にオオバさんが提案したのが「ぽけっと」だったのよね。
- オオバ
- そうだったかな…よく覚えていないけど(笑)
でもたしか「ぽけっと」っていいなと思ったのよ。「ぽけっと」がかわいいし、いろいろ入れられるし、夢があるし、ドラえもんみたいだし。あと、未知なものが出てくるイメージがあっていいなと思った。
ぽけっとの会を立ち上げてからどのような活動をされましたか?
- カジ
- 活動の基本は、年に3、4回会報を発行するのと、クリスマス会でした。後は、みんなでお出かけをよくしたね。
- マツイ
- したした。新宿御苑は良く行ったよね。動物園に行ったりね。お泊り会もよくやったよね。その当時モリヤマさんが子育てで落ち込んでいる時で、お泊り会の時はキッチンで泣いたよねぇ(笑)「つらいこと吐き出しな、吐き出しな」って背中さすってさ。
- モリヤマ
- そうだったよ…夫婦でほんとうにね、辛かったんだよ。その頃息子に自傷があって、夫婦で落ち込んでいた。それに私はぽけっとの会で他の子供達が歩く姿を見て、羨ましかったのよ。息子の障害はけっこう重かったので、息子に対して「普通のダウン症になってほしい」とずーっと思っていた。
だけどぽけっとの会で、みんなで色々なところにお出掛けできることは楽しかった。一人だとお出掛けするのに勇気がいることも、みんなとならできるのでとても嬉しかったな。
- マツイ
- そうだよね。
みんなで集まって会報を作る、当時のアナログならではの良さがあった
- カジ
- 最初のころは会報を作る時は会員の家によく集まったよね。子連れでね。みんなでごはん持ち寄って食べたり、作ってくれたり、楽しかったよね。会報を作りながら悩み相談や情報交換したり、ワイワイとやっていたわよね。
- モリヤマ
- 何もなくてもみんなで集まって、私もよく悩みを相談して、みんなに聞いてもらって嬉しかったし助けられたな。
- カジ
- 子どもたちが大きくなって、少し活動も落ち着いて。でもそのうち会員の人数が増えて、小学生・中学生・高校生とグループ分けしてそれぞれのグループで集まるようになったね。
JDSの紹介で初めて外部の方を集めての勉強会を開催
- カジ
- 初めてやった勉強会覚えている?先輩パパから「やってみてはどうですか」と紹介されて企画したのが「ダウン症の子どもたちが健やかに育つために」という題名での講演会でした。
(講演会の写真を見ながら)みんな若かったよねー。私なんておんぶひもで弟をおぶったまま挨拶しちゃってるね(笑)。参加者も結構来てくれたね。
20年経っての感想
これからは子供達が自発的に活動してほしい
- カジ
- だんだん子供が大きくなって集まれなくなり、会の活動が停滞したこともあったわね。最近は小さい子達のグループの活動が活発でいいなと感じます。これからは大きくなった子供達が自発的に活動できることを願っています。ヘルパーさんがいればできるかしら?
- マツイ
- 私もカジさんと同じで、今後は成人になった今の本人部を活気づけて、本人達が楽しめるようにしていきたいです。みんなカラオケは好きだよね。うちの娘はカラオケで歌うのは好きじゃないけど、司会が好きなのでその役目で(笑)。
- カジ
- ここ最近はぽけっとの会のホームページができたことが大きな変化だったわね。うちの会も立派になったなぁと感激でした。
- マツイ
- そうよねぇ!ホームページは嬉しかったよね。
- モリヤマ
- 20年経って。ぽけっとの中から未知の物が出てきた感じよね。年齢層も増えて賑やかになった。20年たっても立ち上げメンバーの関係が続いているし。
- マツイ
- そうだよねぇ。あと夫婦で支えあっている人たちが増えていると感じるよね。
- カジ
- わたしは地域の中で生活することで「小さい頃から周りが知っている」というのは良いなと実感している。
娘の子育てにお姉ちゃんの存在が大きかった
- マツイ
- うちの娘のお姉ちゃんの話ですが、私はこの子がいてくれたことにとても感謝しています。娘が小さい時は私以上に娘の良き理解者でした。娘が小さい時、宇宙語のような言っていることをお姉ちゃんがわかるんですよね。「今ねむいって」「お腹すいたって言っているよ」と(笑)。その度に「えぇぇぇ?!そうなの?!わかった!!」と慌ててご飯を作ったりしていました。この子はすごいと思いました。お姉ちゃんはお友達と遊ぶ時には妹を連れていくんですよね。その時はお友達に「この子ちょっと変でしょぉ、でも可愛いの~!」と言うんですよ。
私は「この子は未来の妹のような子の助けになる人だ」と思いその道に進むように密に仕向け…現在成功しています。自然体で妹と接し、妹を可愛がっているお姉ちゃんがいたから私もやってこれた部分は大いにありました。
あんなに苦しんでいたけれど、今は子供が私の支えになっている
- オオバ
- 最近グループホームに入る希望者が多くてなかなか入居するのが大変じゃない?だけど、たまたま「入れるチャンスがありますよ」と紹介をしていただいた事があって。その時私は「なんでそんなことを紹介するのだろう」と、すごくいやだった。断ったのよ。
「登録だけしておけば入りたい時に優先的に入れますよ」とも言われたけど、それだっていやよ。息子が産まれた時に「人生終わった」と思ったけれど、この出来事で「息子は今の私の心の支え」だと感じています。結局、自分が子供から離れられない。自立していないのかも。
子供が笑顔であってほしい、快適であってほしい
- モリヤマ
- うちの子は中学2年で施設に入って生活しているじゃない?定期的に自宅に帰ってきます。色々あるけど、子供に思うことは「笑顔であってほしい、生活が快適であってほしい」ということです。それと…できればですが「ママ」って一度言って欲しいなぁ!そして、これもできればですが、息子より長生きして息子の人生を見届けたいです。
これからやってみたいこと
ダウン症の人たちだけのグループホームを作ってみたい
- カジ
- わたしは最近ダウン症の人たちだけのグループホームを作ってみたいと思ったのよ。インクルージョンの時代とは逆行する考えだけど、やっぱりダウン症にはダウン症だけの特徴や個性が多くあって、「障害があるからみんな同じ!!」は違うと思うのよね。だから“ダウン症だけ”のグループホームがあったらいいなと思うのよ。
このご時世だからもしかしたら、これから産まれてくるダウン症は少なくなるかもしれない。そうなるとダウン症の研究や行政の支援もこれ以上手厚くは望めないかも…となると今まで以上に自分たちでこの子達の未来を考えていく必要があるのかなと。
今後は、地域の知的障害のある人の親の会へもぽけっとの会員さんたちに沢山加入してもらい、ダウン症の存在の発信を今まで以上にしっかりやってゆく役目があると思っています。そうすることが、新宿区内でのネットワークが強化になり、成人した子供達の「住む場所」と「働く場所」の環境の向上に繋がると思っています。
息子の自立?そうよねぇ、考えていますよ。…できればうちの境内の中にダウン症のグループホームがあるのが理想です(笑)。そのくらいの距離がいいな。まだまだ息子と離れたくないです(笑)。
30代~50代も健康で、元気でいてほしいと思っています。
娘には障がいに関する助言者になってほしい
- マツイ
- 娘は2018年3月までカレッジ早稲田に通っていました。娘は色々と学ぶことが好きな子です。そんな娘にはダウン症に産まれた自分を社会に還元して欲しいと思っています。
具体的には、障がい者が使いやすい物を作る時の助言者のような仕事をして欲しいです。「こうしたほうがわかりやすい」「こうしたほうが使いやすい」といった当事者視点のアドバイスをして、良い商品やサービスを仲間に使ってもらう、そんな役割ができる子だと思うので、是非担ってくれたら嬉しいですね。
子どもたちも成人になってきて、本人会を運営したい、本人部を活気づけたいと思います。本人部会の親睦会など。ダウン症同士の助け合いのようなことができるいいな。年長者が小さい子の面倒を見たり…
これから産まれるダウン症のある家族へのメッセージ
子供の健康に異変を感じたらすぐに健康管理を!
- モリヤマ
- これだけは若いお母さん達に伝えたいのですが、子供達は「目が見えにくい」や「耳が聞こえにくい」を小さい時は特に自分で伝えることができません。早く発見できれば、対応策もたくさんあります。日常に注意深く観察することや、定期検査は必ずしてほしいと思います。取返しの付かない状態にならないように!
- カジ
- そのためにも地域の医療や情報のネットワークが大切だよね。
- マツイ
- そうだよね、私たちも成人してからの健康管理を考えていかないとね。
ダウン症を専門的に診ることができる医師はなかなかいないのよね。情報交換しながら、新宿区内でのネットワークを作っていくことが大切よね。
対談を終えて
同じダウン症のある子を育てる親にも感じ方がそれぞれあり「ダウン症があるから」ではなく「我が子がいて、我が子には、ダウン症がある」皆さんそのように感じているとわかりました。
ダウン症のある人もない人も、その人らしく、安心した暮らしになると良いですね。